『Mickey17』
ロバート・パティンソンが出演するということで、とても楽しみにしていた作品。楽しみにしすぎて2022年12月の時点で原作のMickey7を読んでしまいました。原作と大筋では合っているものの、だいぶ内容改変されていましたね。原作では7人目だったミッキーが映画では17人めになっていました。
ボン・ジュノ監督らしい、シュールで社会風刺的な作品になっていました。俳優さん達も監督の意図を組んでか、わりと大袈裟で分かりやすく演技をされているように感じました。原作の核となるアイデアは保ちつつ、脚本の編集と監督の演出でまったく異なる作品へと変貌するんだな、と感心しました。
小説『Mickey7』の主人公ミッキーは、エクスペンダブルズ:消耗品として、危険な任務に送り出されては死亡し、再生されるという役割を担っています。彼はエクスペンダブルズとしての自らの存在意義について考察する、ある程度の知性を感じさせる人物でした。
しかし映画版『Mickey17』でのミッキーは、どちらかというと鈍くさく、思慮深さに欠ける人物として描かれており、原作ミッキーのように状況を客観的に見つめたり、哲学的に悩んだりすることはありません。この変更には少しがっかりしましたが、次第にそれが監督の意図する風刺的な構造の一部であることに気づきました。
映画と原作の大きな違いは、ケネス・マーシャルの描き方ではないでしょうか。小説では彼は冷徹で軍人的な植民地の指導者であり、人類の生存を最優先するあまり非情な決断を下す人物として描かれています。。そのリアリズムが物語の緊張感を生んでいました。
一方映画では、マーシャルはまるで権威主義の風刺画的な存在になっています。自分の権威や見た目にこだわる、滑稽で空虚なリーダー。現場よりも体裁を優先し、何よりも「支配すること」に固執するその姿は、ポン・ジュノ監督らしい痛烈な社会風刺そのものでした。しかも、マーシャルを演じたマーク・ラファロがとても良かったのです。人類の醜悪さを一手に集めたような人物なのに、彼が演じると謎の色気がムンムンと漂っていて、なんとも言えない魅力を漂わせていました。あんなに分かりやすく悪い奴なのに、支持者が多いのも頷けます。原作ではだた恐れるべき存在だった彼を、あり得ないほどに滑稽で、しかも米国の某政治家を思わせるような現実味のある姿として演じられたのは素晴らしいと思いました。
とはいえ、やはり映画のミッキーに少しがっかりしたのも事実です。知性が削がれたことで、原作にあったような深みや共感が薄れてしまったように感じました。映画はその代わりにドタバタ劇やミッキー17と18の視覚的なギャップに重きを置いており、成功している場面もあれば、やや空回りしているように感じた部分もあります。俳優さんファンとしては、造りはイケメンなのに、声や表情仕草で全くイケメンの気配が消えたミッキーには複雑な思いでしたけど・・。知性に欠けるミッキー17と、サイコパス味のあるミッキー18を演じ分けたロバート・パティンソンの演技は見事だったと思います。
最初は原作との違いに戸惑ったものの、映画『Mickey17』の社会風刺が面白く、物語としてもよくまとまっていると思いました。ポン・ジュノ監督は、原作の世界をなぞるだけではなく、現世界における権力構造や、不条理を描き出すことに成功したと言えるでしょう。